純粋で透明な心

宏空様/僧侶/59歳/男性/愛知県在住/探求歴:49年

以下のご感想は、宏空様から事務局宛(あて)に頂いたメールでのご報告を、ご本人のご許可をいただいて掲載させていただいたものであります。

また、ご本人のご許可をいただいた上で、読者様がお読みになられた時に誤解が生じないよう、文章の意味が変わらない範囲において、読みやすく理解しやすいように加筆修正も行っております。

宏空様/僧侶/59歳/男性/愛知県在住/探究歴:49年

旧サイトにおいて木幡 等のことに興味を持たれた宏空様から、当時の特別セッションのご希望のご連絡があり、名古屋からお車でお越しになられた時に行った4時間セッションのご感想です。

 

私が木幡氏を選んだ理由

私は幼少の頃から、存在の神秘に魅了され、宗教的なものに惹かれてきました。

キリスト教に始まり、様々な宗教を遍歴した後に、浄土宗の僧侶になりました。

 

そんな私は、最近、自分の霊的ステージを少しでも進展させたいと思い、あるスピリチュアル系のセラピストの個人セッションを受けようか、どうしようかと迷っていました。

 

ちょうどその頃、木幡氏のサイトの文章を目にしました。

木幡氏が書かれた文章をいくつか読んで、私は深く感銘を受けると共に自分の中にある種の必然性のようなものを感じました。

「このような文章を書いた人に是非会いたい」という思いに逆らいがたくなり、私は木幡氏のセッションを申し込みました。

 

私が木幡氏を選んだ一番の決め手は、悟りに対する木幡氏のパースペクティブ(見通し、理解)の明晰さと的確さでした。

哲学好きの私にとって、木幡氏の文章は非常に魅力的だったのみならず、その内容にも全面的に賛同できるものでした。

 

実際のセッションでは、木幡氏は私を「純粋意識との接触状態」に最短距離で導こうと尽力されました。

その真摯(しんし)で良心的な態度には、本当に頭が下がりました。

 

その上、木幡氏はセッションを受けた人を最短距離で、その人なりのゴールまで導いて、さっさとスピリチュアルな探究から卒業させようと願っています。

そのあまりにも良心的な態度は、絶賛に値します。

いわゆるスピ系悟りビジネスなるものが高額な料金にもかかわらず、講演会やセミナーなどに多くのお客様を集め、けっこう繁盛している感もありますが、木幡氏に関しては、そのような商業主義的な胡散臭さが微塵(みじん)も感じられませんでした。

 

セッションを終えた今、私は木幡氏のご恩に報いられるように、木幡氏によって明らかにしていただいた純粋意識を灯明として、自身の探究をさらに深化させていく覚悟でいます。

 

2017年8月12日/直接対面でのサイレンス・セッション/第1回目を終えて

2017年8月12日、私は木幡氏の直接伝達の個人セッションを受けました。

私がセッションを申し込んだ目的は「純粋意識の目覚め」を実現することでした。

実際のセッションは前半と後半の2部構成でした。

 

前半では、ヘッドセンターのワークにより私の中の気づきのエネルギーが高められ、木幡氏との対話と質疑応答を通して私の様々な疑問が解決され、高次の自己についての理解が深められました。

 

少しの休息をはさんで、後半が始まりました。

私がキリスト教の影響を強く受けた浄土宗僧侶ということもあり、「純粋意識の目覚め」のワークは、祈り的な在り方をベースにして行うことになりました。

前半の影響もあり、後半が始まった時には、すでに私の中でヘッドセンターが感じられていました。

 

いよいよ木幡氏の「沈黙による直接伝達」が始まりました。

私は沈黙の祈りとヘッドセンターのエネルギーへの留意に身をまかせるように心がけました。

 

「沈黙による直接伝達」が始まってから約10分後のことでした。

内なる音が鳴り響き、私のすべてが恩寵(おんちょう)のエネルギーに包み込まれているような感じになり、ひたすら穏やかで、静かな平和がそこにありました。

私にとって最も価値のある状態が実現しました。

 

何かを得たわけでもないのに、何かに集中しているわけでもないのに、何か楽しいことをしているわけでもないのに、何か有益なことをしているわけでもないのに、人間が立派になったわけでもないのに、何も必要とせず、何も望むものはなく、退屈もせず、飽きることもなく、ただそこに存在しているだけで、すべてが満ち足りて、いつまでもこのままでいたい、もしできるならば、このまま肉体を離れてしまいたいとさえ思えるような状態を味わっていました。

 

そこには、通常のカウンセリングやセラピーを通して経験できるような癒やしや安心や喜び以上の味わいがありました。

私を超えた何か神聖な次元とつながって、一体化しているという敬虔(けいけん)な気分と畏敬(いけい)の念を伴う感覚でした。

時間の経過と共に、そこへ向かって私という意識が溶け込んでいくという感じもありました。

 

ここにおいて「純粋意識の目覚め」が実現されたと思いました。

 

セッションを終え、日常に戻り、何日かが過ぎました。

私は日本仏教の浄土宗の中でも、山崎弁栄上人が提唱した光明主義という霊的伝統に属しているので、あの時の感覚は阿弥陀仏の本願(純粋意識)に触れ、包まれ、溶け込んでいく実感であったと受け取っています。

実際、阿弥陀仏の本願による救いへの確信がセッション以前よりも深まりました。

さらに、さりげない日常生活の中でも、コーヒーを飲む時など、ちょっとした瞬間にあの感覚を再現できるように心がけています。

半年後、1年後に自分がどうように変化、変容しているかが楽しみでもあります。

 

これからも時々、木幡氏のセッションでの感覚を思い出しては、今この瞬間に目覚めて、阿弥陀仏の本願との一体化を自覚すること、つまり、即今当念弥陀合一の念仏に精進していきたいと思っています。

 

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

PAGE TOP