「透明で純粋な心」それが「本当のあなた」

若山ゆりこ様/ヨガ教師/50歳/女性/神奈川県在住/探究歴:7年

この記事は2019.2.27、13:30に更新しました。

更新内容:「2019年2月20日/フルムーン・ヒーリングに参加してを掲載いたしました。

 

以下のご感想は、若山ゆりこ様から事務局宛(あて)に頂いたメールでのご報告や目覚めの日記からの抜粋を、ご本人様のご許可をいただいて掲載させていただいたものであります。

また、ご本人様のご許可をいただいた上で、原文の真意が伝わりやすいように加筆修正を行っております。

目次

 

2018年10月17日 / スカイプでの個人セッション / 第1回目を終えて

セッション翌日

昨日はありがとうございます。

今朝はフラフラで、仕事できるかと思いましたが、幸い楽な仕事内容の日でしたので、仕事の合間の時間はほとんど惚けて過ごしていました。w

 

今回のセッションでさらに一段深い理解が得られました。

本当にありがとうございました。

 

ラマナ・マハリシやプンジャジが「ただ静かにしていなさい。」と言っていた言葉は、比喩的な意味かと思っていましたが、本当にそのままの意味だったんだと、初めて理解しました。

 

 ただただ一人静かにしていたい。

どこへも行かずに静かにしていたい。

そして内なる「彼女」といつもずっといたい、そんな気持ちでいます。

 

この一年、瞑想リトリートなどのワークの結果、私がしっかり身体の中に在って、私が私であるという確かな感覚が継続していました。

それは私という存在に芯が入ってるような。

しかし今日は私が身体の外に拡大し、身体が私の内にあるという感じに発展しています。

そしてその意識には私という色さえない。

 

この流れが途絶えないよう、繊細にいつも開いていたいです。

また経過をお知らせしますね。

 

木幡等によるコメント

この時期は、一般のお客様へのサイレンスセッションは行っておりませんでしたが、若山さんにおきましては、真なる自己の目覚めの準備が整っている確信というものがありましたので、初回からサイレンスセッションを行いました。

後半に行う、サイレンスセッションのメインである沈黙での直接伝達、その効果を高めるための下地として、セッションが始まって挨拶もそこそこに直接伝達をしました。

なぜならその日のセッションは17:30スタートでしたので、黄昏時という活動エネルギーが休息の状態へと移行する時間帯であったからです。

これを利用しない手はないと思いました。

 

初めてお会いして、まだ数分なのに、「私の目を見つめていてください。」と言われたYさんは、度肝を抜かれたかもしれません。

もしくは、サイトから受けられたであろう独特な印象から、むしろ私らしいと思われたのかもしれません。

とにかく私は聖なるものを送り続けたわけです。

 

私の目を見つめて数分で、目覚めに由来するフラフラになられたようです。

8分位でやめました。

後半への準備のつもりが、そこで効いてしまったので、セッションの始めに行う質疑応答をするような意識状態ではなくなっています。

 

若山さんは、そのような穏やかな至福の意識状態に浸りながら、私との静かな対話を始められたわけです。

 

この時点で、この日のセッションの最大の目的、真なる自己の明晰な目覚め生じさせることは達成されていますので、後半に行う沈黙での直接伝達を受けとってもらえるかという心配からは解放されたわけです

 

もっとも重要なことでありますYさんの目覚めは、10/20現在の時点でもその目覚めは弱まることなく継続しております。

私からしましても、若山さんなら大丈夫だという安心感があります。

 

セッションから4日目

こんにちは。

今までにない意識状態が継続していることに、正直驚いております。

 

今日も静かです。

昨日も、ほとんど椅子に座って過ごしていました。

今朝、瞑想しようとして背筋を伸ばして座り、目を閉じたら、瞑想している時と、していない時の状態がほとんど同じということに気がつき、驚きました。

それでも座ってしばらく目を閉じていると、姿勢を固めている分だけ、内側に意識がロックされた状態になって、かえって心地悪く感じられました。

 

ここ一年育て続けてきた自己意識の粒が、今は外側に拡張して広がってるので、それを粒にして内側に固めると気持ち悪いのです。

粒が固められない、でも集中してないわけじゃない。

 

逆に体を動かす時の方がスムーズです。

身体を動かすのは億劫ですが、動かし始めるとささっと動きます。

何か考えたり、決定したりとかはやりたくないですけど。

 

静けさの中に、時おり何とも言えない切なさや悲しさが沸(わ)き起こってきます。

それは今まで良いと思っていた事柄が、用をなさなくなりつつあるという喪失感かもしれません。

 

感謝を込めて

 

セッションから7日目

木幡さま

こんばんは、いかがお過ごしですか?

今日も無事に継続中です。

 

昨日、今日も朝、瞑想してみました。

ただ姿勢を固めず、ゆったり背筋を伸ばし、あまり内側に意識を集中させずに、リラックスして流れをただ受け入れる。

頭からエネルギーがザーザーと流れて落ちていく、それはとても心地よい感覚でした。

横になっていると、頭部だけでなく身体中がかすかに振動しているのを感じます。

まるでOS(コンピュータを動かすためのプログラム)を書き換えているようですね。

 

セッション直後よりは思考が働くようになってますが、フックする力(想念の引力とでもいうべき、巻き込む力)は依然弱いです。

一方通行というか、あまりぐるぐる逡巡(しゅんじゅん)しない。

 

ただ一人で静かにしているだけで、こんなに暖かな気持ちになれるなんて。

夜、すべての仕事が終わって、椅子に座ってくつろぐ時間が楽しみでなりません。

 

きっと子供の頃もこんな気持ちで生きてたんだろうな。

好きな人と一緒にいる時とか、素晴らしい風景を見た時とかも。

それはずっと外側の何かに起因しているのだと思っていた。

でも本当は、自分の中から湧(わ)き上がってくるものだった。

それをずっと忘れないでいたいです。

 

ありがとうございます。

素敵な夜を

 

 ()内の言葉は、木幡等による注釈

 

セッションから14日目

朝の時間が一番クリアに彼女を感じることができる。

90分ほど静かに椅子に座って過ごす。

朝と寝る前、そして電車の中が大切な彼女とのデートタイム。

 

今日は頭からハートの方にエネルギーが降りていく感覚があった。

エネルギーが下に降りると、頭がスッキリして軽いし、ふわっと優しい気持ちになれる。

何だかふと「私」なんてどうでもいいんだな、と思いついて可笑しくなった。

「私の」「私は」「私が」色々ぐるぐる考えて生きてきたけど。

この流れの中にいると、「なんか、もうど~でもいいんじゃね?」みたいになる。

去年とは真逆だな。

でも、確かなのは、こっちの方が穏やかでご機嫌になれるってこと。

 

木幡先生がセッションで「聖なるものとのつながりが弱く、自己意識だけが明晰に目覚めているということは、ある意味苦しい。」っていうような事を言ってたけど、その時は「そうかな?」って思ったが、今は「確かに、そうだなぁ」と思う。

 

これからもいろんな理解の深まりがやってくるのが、楽しみ。

 

11/8

昨日、役所に事務手続きをしに行った。

その時「世帯主は?」と聞かれ、「あ、私です」と答えた瞬間、「で、この私って誰よ?」「誰が私って言ってるの?」と不思議な感覚に包まれた。

 

この世界にズレを感じる瞬間て、小さい頃はよくあったなと思い出す。

いつも見慣れた風景が、突然全く違ったものに見えたり。

子供の頃、布団にくるまってじっと体を動かさずにいると、体の感覚がなくなって「私」という感覚だけが残るのが、面白くて好きだった。

そうした経験を詩にすると、学校で褒められた。

その時、「みんなは普段こんな風に感じてはいないのだろうか?」と思った。

 

そういう繊細さが、自分から失われたのは小学校高学年から、中学生にかけてだ。

だんだん盛り(笑)がついてきて、他人(異性)の目を気にするようになった。

「世界は私が感じているより、ご機嫌ではないらしい・・・」と思い始めた。

私はどうやら「美人」と呼ばれる人間ではないらしいとか、男子からモテるタイプではないらしいとか、だったら勉強くらいできるようにならないと、とか、保身や知恵を働かせるようになったのだ。

 

今日そのことを思い出していて、本当にクリアに、自分がそのことで深く傷ついていて、その痛みに由来する条件付けを、ずっと引きずっていることに気がついた。

「おや、お前、そんなことをずっと気にして生きてきたんだね。」という感じ。

この間も似たような事が起こったが、想念と自分との距離が遠くなったせいか、そういう過去の傷や痛みを、とてもクリアに捉えられるようになった。

「ああ、このポイントが始まりだったんだ。」と。

今までは痛みに触れると自動反応で巻き込まれていたから、気がつかなかったんだな。

 

スピリチュアルな道は、この体が終わりを告げるまで、ずっと熟成を続けるのだろう。

でも風景は完全に以前と変わった、自力の道から、他力の道へ。

自力の道は修練や集中が必要だけれど、他力の道に必要なのはサレンダー(明け渡し)と寛ぎと愛。(でも、まだ注意深さも必要だけど。)

この風景の美しさと驚きは、世界のどんな場所にもかなわない。

 

11/10

木幡先生からの直接伝達の後、「一体、何に対する目覚めだろう? ただ眠くて頭がぼ~っとするだけなのに・・・」と思っていた。

 

それが徐々にヴェールが剥(は)がれてきて、「そうか、まさにこれは『目覚め』なんだ」と感じている。

自分の中のあらゆる幻想や欺瞞からの目覚め。

そして不自然さを落とした、シンプルで、柔らかく、安心な存在への目覚め。

 

それに向かって脳がすごい勢いでOS(コンピュータを動かすためのプログラム)を書き換えているのだな。

 

 ()内の言葉は、木幡等による注釈

 

11/11

「こんなに幸せだった事が、いまだかつてあっただろうか?」

何もしなくても誰かがそばにいなくても、体から染み渡ってくるこの、暖かな幸せ。

それは決して脳天をつきやぶるような激しさはないし、ドキドキワクワクしたりもしない。

ささやかに穏やかに、ゆったりと続く。

でも、何にも拠らない小さな幸せが、これほどの喜びをもたらしてくれるとは、思わなかった。

 

あまりにも幸せなので、この幸せを誰かにおすそ分けしたくなる。

だって、これは人にあげたからってなくなる幸せじゃないから。

誰かが盗んだり、独り占めしたりできるものじゃないから。

「私の方があなたよりも幸せよ」って、自慢したり比較したりするものでもないから。

ただ、ここに満ち満ちているものだから。

 

「私が受け取ったもの、そのエネルギーの本質は愛なんだな」と感じる。

「愛って本当にこういうエネルギーなんだ」って。

愛とは「愛する」という行為ではなく、ただ状態なんだと。

 

などど書いていると、幸せな気持ちがまた増幅されて、楽しくなってきた。

「彼女」の流れが、日常に浸透してきて、少しづつ「色」が変わって行く。

 

11/12

「彼女」に出会ってから、余分なものがどんどん洗い流されていく。

今まで受けたどんなセラピーもヒーリングも叶わないくらいの勢いで。

それはまさに、ただ「聖なるもの」の力としか言いようがなく、根源のエネルギーとはそれほどまでに、愛と光に満ちたものだったのだと、驚嘆する。 

 

こうして過去の出来事を思い出し、言語化していくことも、汚れを浮き上がらせて掻き取りやすくしているように感じる。 

今までの人生で感じた痛み、わだかまり、悲しみなどを、再構成してクリアリングする、という作業を脳が勝手に、がんがん進めている。

インドの言葉でいえばサンスカーラ(潜在意識に蓄積された心象)を、「聖なるもの」の光に当てて浄化していく。 

ひとつ終わるごとに、脳の余分なメモリーが消えて軽くなる感じ。 

 

今までの世界の見方を、聖なるものの側からの視座へシフトチェンジするための、書き換え作業。 

 

これが一通り終わったら何が起こるんだろう? 

 

11/16

昨日の木幡先生との対話のせいなのか、感情が強く動いている。 

その感情が何なのか、言葉にできない。

今までに感じたことのない、何とも言えない感情。

切なさと静けさと、心がぎゅっと掴まれるような感じと、じわっとした暖かさ。

今日はずっとその感情の中に捕らえられていた。 

 

私が最初の師に出会ってすぐの頃、ある日彼は言った。 

「あなたには、まだ夢や希望があるね。私にはないんだよ。」 

そう言われて私はキョトンとした。

当時はまだ、夢や希望を持つのは単純に良いことと考えていたから。

彼は続けて言った。 

「夢を見るのは、眠ってる人だけだよ。」 

その時はよくわからなかった。

彼が何かに絶望しているのかとも考えた。

でも、今は100%分かる。 

 

今も、私にはまだ夢も希望もある。

だって体はまだこの世界に生きていく訳だし、できればこの世界でも快適で苦労は少なく生活したい。 

それでも、一方で「全ては『彼女』にお任せするしかないのだ」と思う。 

彼女が夢の世界を叶えるよりも、こっちに来いと言うならそうするしかない。 

 

「この世界で適度に遊び、上手くやりながら目覚めていることは無理なのだろうか・・・」と思う。

最初は多分無理なんだろう。 

だって、目覚めとは「この夢の世界の終わり」だから。

夢を見ながら、目覚めていることはできないのだ。

一度すっかり夢から覚めれば、再びこの世界で遊ぶことができたとしても。 

 

私が本気で目覚めたいと望むなら、これからも世界は壊れていくだろう。 

私はその全てに「OK」と言えるんだろうか?

すっかり取り壊された夢の瓦礫(がれき)の真ん中で「OK」と言えるのか。 

 

もし、ある夢を残して置きたいと思ったら、その分、目覚めも取り残される。

夢をいくつも残しておきたければ、目覚めの領域はその分減る。

その選択は瞬間瞬間に起こっている。

夢を残すのか、手放すのか。 

 

確かにそれは、簡単なことじゃないよな。

誰だってどこかで手放せない夢はある。

諦めたくない希望がある。

もちろん、それを全て叶わぬものとして諦めろって訳じゃない。

それを全て「彼女」「それ」にお任せしなさいと言うことだ。 

 

「それ」としてこの世界で個人を生きる。

その時「彼女」が何を望むのかは、「彼女」だけが知っている。

 

11/17

直接伝達からちょうど1ヶ月。 

 

昨日は、さすがに疲れていてさっさと早寝をした。

外出から昼過ぎに家に戻り、家事を済ませようと思ったが、眠くてそのまま倒れるように寝ていた。

目が覚めても体を起こす気になれず、しばらく横たわっていた。

何かに強く吸い込まれてるみたいで、身体が布団に張り付いている。 

 

何もする気になれないが、何とか起き上がって溜まってるアイロンがけだけをした。

そのまま、また座り込んでいる。 

何となくフェーズが移行しつつあるのか、テンションの高い興奮状態が少し落ち着いて、今度は自分が崩壊していくような、深海の底に引きこまれて行くような感覚につつまれている。

それに少し動揺している。 

 

昨日から感じている、何とも切なく胸を掴まれるような感覚は、もしかしたら私がもう希望や夢を持つことができない、という気づきに由来するのかもしれない。 

 

私の片方は、喜んで「目覚めの変容」を受け入れているが、もう片方では「自分はもはや夢や希望を掴んでいる事ができないのだ」という恐ろしさを感じている。

それができなかったら、一体私は誰になるのか?

自分という存在を夢や希望でつなぎ止めておかなったら、どこへ行ってしまうのだろう? 

 

私などは、「目覚めながらも、時々夢の世界の心地よさをエンジョイできるのではないか」と、つい考えてしまう。

悟りたいけど、こっち側の夢も取っておきたい。

「それは女性的な傾向では」と木幡先生もおっしゃっておられたが、私も「そうだな」と思う。 

 

特に現代のスピリチュアルの流れは、伝統的なやり方と違って、この世の快適さや幸せも否定しない事が多いから、今時そんなガチでストイックにやる必要ない、自分の希望や欲望は否定しなくて良いと。

両方まるごと引き受けて、行き来していきたいと、ね。

この世で幸せになることと、目覚める事、両方どりしたいし、できる筈だって。 

 

もしかして、女性探求者に立ちはだかる最大の障壁は、案外その夢を捨てられない事だったりして。

例え目覚めても、夢を残しておけば目覚めも半分だ。 

 

それは、快適なソファに座りながら目覚める事はできない、と言うわけでもないだろうし。

何年もの間ヒマラヤの洞窟で隠遁しなければ、目覚められないというわけではないだろう。 

 

「苦行するかどうか」ではなく、「エゴが掴(つか)んでいる想念の夢の束をどこまで手放せるか」ということ。

それは自分が後生大事に掴んでいた重荷を下ろす事でもあるし、同時に「私」という存在が一回解体されることなのだ。 

そしてもし、すっかり夢から覚めたら、今までは「楽しい」と感じていた夢も、全く色褪せて見えるのかもしれない。

それでもその世界で、他の人が夢を見ている中で、しばらく生き続けないといけないのだ。 

 

ここ1ヶ月は目覚めの至福さに酔って、ずっとハッピーでいたけど。 

「そんな甘いもんじゃないぜ」と言われた気分。 

「この先まで来る覚悟はあるのかな?」 

 

それを突きつけられて、心が騒ついているのかも。 

私が一生懸命打ちたてようとしてきた「従来の私」というキャラクターが、ものすごく揺らいでいる。

「一体、これが何なんだろう」と。

 

11/18

朝、起き抜けにいつものようにソファに座って、目を閉じる。

この間と同じ感じで、一段深い静寂のレイヤーの中に入っていった。

そのまま座っていると、どんどん吸い込まれて、小さな穴の中に落ちていきそうになる。

さらに深く、すとーん落ちそうになって、その時ガクンと頭が落ちた。

はっと我にかえって、あの眠りに落ちて行く瞬間を思い出そうとするが、はっきりとは思い出せない

でも今までにない、深く凍りつくような静けさの余韻だけが残っていた。

 

あの吸い込まれていって、頭が落ちるまでの間は、思考がほとんど流れていなかった。

静寂な中心の周りを、虫のように思考がバタバタ飛び回っていて、注意が時々その虫の方に向かうが、中心の静寂はビクともしていない。

 

「あ、もしかしてこの一段深い静寂のレイヤーって、一段、熟睡状態の眠りに近いレイヤーなのかも」と思う。

今まではこのレイヤーに入ると寝落ちてたんじゃないかな。

 

しかし出勤のために動き始めると、昨日のざわざわした感じが戻って来て、気が重くなった。

想念が私の耳元で囁(ささや)き始める。

「こんなことしてたら、頭おかしくなるかも。」

「戻るなら今のうち」

「いくら一生懸命やっても社会的には、完全なる無駄。」

 

あ〜うるさいな!

いきなり想念が反撃に出始めたな。

ああ、去年もこんな感じだったな、冬至が近いから陰に入りやすいんだろうな。

どんよりしつつ、カバンにラマナ・マハリシの『不滅の意識』を放り込んで家を出た。

 

職場での休憩時間に、本をパラパラめくった。

98ページのある箇所が目に飛び込んできた。

 

「誰が落胆しているのか」という問いを発しなければなりません。

それは、そのような想念の餌食になっているエゴの妄想なのです。

眠りの中で人は悩まされることはありません。

眠りの状態が正常な状態なのです。

探求して発見しなさい。

 

数時間後に木幡先生からメールが来た。

 

毎晩、あなたは熟睡中には完全に消え去っています。

そのような意味であなたは、毎日、死んでいます。

その時のあなたは、心地良い体験や幸せなども求めていません。

それらを必要とさえしていません。

そのように毎日、親しんでいる状態であるにもかかわらず、なにを怯(おび)える必要があるのですか?

 

ラマナの本の箇所と、ほとんど同じ内容ではないか!

これは、きちんと向き合えということね。

 

エゴが恐れているのは、幸福への夢やアイデンティティを手放した後で、昼間の世界をどう生きていけばいいか、見当もつかないから。

そして社会的な体裁を失うことをとても恐れている。

 

けれど、眠る時に毎晩私は一度死んでいる。

その時はあらゆる希望や自分に関するアイデンティティはすっかり手放している。

社会的な体裁なんて微塵(みじん)も残さずに、なのに何故それを恐れるのか?

 

毎晩、想念の及ばぬ場所で私はすっかり安らいでいる。

エゴも自分のアイデンティティを手放して眠ることには抵抗していない。

 

では、それを手放すことを恐れているのは一体誰なのか?

 

誰、なんだろうね。

少なくとも私じゃないな、エゴでもないな、

 

私じゃなきゃ誰よ・・・?

じゃあ、誰もいない・・・ってこと?!

 

誰もいないんだ!

恐れだけがそこにあって、恐れている主体はいない。

 

自分を失うことを恐れている私は本当はいない。

私は自分を失うことを恐れてなんかいない。

 

あるのは、漠とした恐れだけ。

根っこのない恐れがそこにあるだけだ。

まるで命のないロープを、生きている蛇だと勘違いしていた。

そしてそれにせっせと餌をあげて膨らましていたわけだ。

 

恐れているのは誰もいなかった!

と気がついたら、脱力して一人で呆れて笑っていた。

可笑しい、おかしすぎる。

昼の世界で必死で体裁整えようとしてた、私って一体何なんだ?

最高の安らぎは、それを全て手放すことだったというのに? 

痛みから解放されたいと言いながら、棘(とげ)だらけの荊(いばら)を必死に握りしめてたってことか。

 

木幡先生、本当にありがとうございます。

今日のは私にとって、ものすごい禅の一撃でした。

 

11/19

昨日の禅ヒットの衝撃はまだ続いている。

 

私は今まで一体、何のためにこんなに頑張ってきたんだろう。

自分が何者かであるために?

何故それが、そんなに大切なことだったんだろう?

 

自分がただ、あるがままの自分であったら、

人は自分を愛してはくれないだろうと、思っていた

人は私の弱さを攻撃して、私は傷つけられる

 

ただ私が私として寛いでいたら、人は私をバカにするかもしれない

油断してぼーっとしていたら、大切なものを奪っていくかもしれない

 

だから、強くならなければ、自分を認めてもらうために

武装しなければ、バカにされないように、弱みを見せないように、奪われないように

 

結局、私が手放せずにいた夢も、その武装の城壁を一段高くするだけの事だったのかも。

夢を叶えたら、自尊心が強まって、私の鎧(よろい)は一枚厚くなる。

夢を叶える事が出来た「スゴイ私」ってね。

 

でも、最初から私はそんな事一つも望んでいなかった、としたら?

私はただ、何者でもなく寛いでいる時が最高に幸せだったのだ。

今までもずっと。

 

休日の朝にゴロゴロしている時とか

森の中を一人で歩いている時とか

砂浜で寝そべって波の音を聞いている時

心地よいカフェで、コーヒーを飲む時

 

私が旅をするのが好きだったのも、誰でもない私という感覚を強く味わえるからだった。

誰も私のことを知らない場所の真ん中で五感を開いて、そこに立っている時、「私」はその場所に溶け去ってしまう。

きっと、そういう時こそ「彼女」は私に触れていたのだ。

 

なのに、一方で「私」を強固にしようと必死になっていた。

私の夢を叶える、私のしたいことをする、人と違う事をする、好きな事で食べていく、自分の個性を人前で表現する。

 

何もしないで寛いでいる時が幸せなのに、何かしようと必死になっている。

逆方向の力で引っ張りあってたんだから、そりゃ~疲れるよね。

「私」が「彼女」から離れて孤立していけばいくほど疲れるんだよ。

「何かおかしい」って心のどこかで気づくから。

 

「でも、この世界でサバイバルしていかなきゃいけないからさ」って、いつも言い聞かせてた。

 

だから古今東西の聖者は重荷を降ろして「神」に全てをお任せしなさいって言うわけね。

寛いで手放しなさいって。

ラマナ・マハリシもイエス・キリストも。

 

『どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。

神の至高の力が全ての物事を動かしているというのに、なぜ我々はその力に身を任せず、何をどうすべきか、何をどうすべきでないかと思い悩むのだろうか?

われわれは列車が全ての荷物を運んでくれることを知っている。

列車に乗ってまでも自分の小さな荷物を頭に乗せて苦労する必要がどこにあるだろう。

荷物を降ろして安心しなさい。』

 

『なぜ着物のことで心配するのですか。
野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。
信仰の薄い人たち。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。』

 

寛いで手放して安らぐのが、一番の幸せって知ってるのに、それが出来ずにいらない妄想を、必死で掴んでいる。

人間って本当にバカだな。

 

でも、でも

「そんなことして路頭に迷ったら、どうする?」「死んじゃったらどうする?」と、悪あがきをする心。

 

いいんじゃないの?

 

もしかしたら死ぬことすら、本当は「私」は恐れていないのかもしれない。

スーフィーでも死は神との合一、結婚だって言うじゃないの。

 

私は毎晩死んでいる、その死の中で最高に寛いでいる。

なのに何故、それをそんなに怖がるの?

 

怖がっているのは一体誰なのか?

 

12/1

昨日、木幡先生からメールが届いた。

「真なる自己の目覚め」の進展の過程とは、この上なく美しいものです。

今、あなたが苦しいのは、目覚めが進展しているからではなく、「あなたの在り方」が眠りの方向へと後戻りしているからです。
恐怖という想念に巻き込まれているわけですからね。
思考だけでなく、感情レベルでも巻き込まれているので、「あなた」がやられてしまうわけです。

「聖なるもの」とのつながりがあるにも関わらず・・・

 

ショックで動揺し、しばらく固まってた。

「うわ~・・・ 私、後戻りしてたのか・・・」

怒りが湧(わ)いたり、悲しくなったり、これからどうすればいいのかと嘆いたり、しばらくグルグルしていたが、何度も頂いたメールを読んでいるうちに落ち着いてきた。

一体どこで「下降」していったのか。

 

ああ、私いつのまにか「苦悩」してた。

木幡先生から直接伝達を受けたセッション直後は、苦悩なんてなかった。

ただ幸せでご機嫌で、軽くて透明で。

 

あれが本来のあり方だとしたら、どこで苦悩が入り込んだんだろう?

いつのまにか「苦悩」もプロセスのうち、と思っていた。

 

ふと、子供の頃の自分を思い出した。

セッションの後、ずっと子供の頃に感じていた世界への眼差しを取り戻した気がしていたから。

あの頃、私はいつも唄ってた。

ご機嫌で、いつも遊んでいた。

世界はいつも新鮮でキラキラしていた。

もちろん子供なりに、辛いことだってたくさんあったけど。

 

それが、だんだんと「うまくやろう」「褒められよう」という意図が入り込むことによって、唄えなくなった。

うまくやろうとするほど、ギクシャクしてくる、あの感じ。

そして、いつの間にか人生に「苦悩」が入り込んでいったのだ。

そして「苦悩」する方が高尚なことだと思うようになっていった。

 

まさに、あれだ。

あの意識が収縮していった、あの感じだ。

直接伝達直後の軽やかで透明な在り方、子供の頃の自然で素直な在り方、あれが私の本来のあり方なんだ。

 

直接伝達直後のあの時、私は苦悩していた?

何か心配してた?

明日着る物の、明日食べるのものの、心配をしていた?

より良き人生を送ろうと努力してしていた?

正しくあろう、自分を賢く見せようと奮闘していた?

 

あの感じ。

ただ開いていて、ふわっとしていて、言葉には捕らえられない、とても繊細な、意識のあり方。

だから、子供の頃だんだんとそれを失っていった時、私はどうやってそれを取り戻していいのか、分からなかった。

その代わり苦悩が、悩むことが、批判する事が、比べる事が、入りこんでいったのだ。

 

あぁ、あそこだよ。

あの在り方に戻っていかなきゃ。

 

木幡先生は、私の「目覚め」が上昇から下降の流れに切り替わったポイントも指摘されていた。

私は別なポイントを考えていた。

そして何れにせよ、私がどこかで作為的になっていったという事だ。

素直で自然ではなく、なにかを「やろう」、正しく「あろう」と意図し始めたこと。

そこから意識が収縮して、下降が始まって、気がついたら悩み始めてたということ。

 

木幡先生から、

あなたが目覚めていれば、誰もあなたの内部には入ってこれない。

想念ではなく、聖なるものとつながっているならば・・・

という内容のメールが返ってきた。

 

たしかに・・・

でも、そうはいっても難しいんだよなぁ。

私はすぐに人のエネルギーに影響されちゃうから。

 

木幡先生にメールを返信して、少しソファに座ろうとした時、急に強いエネルギーが流れ込んできて、頭をぎゅっと掴(つか)まれた。

空間が「ぐわん」と揺れた。

そして、笑いがこみ上げてきた。

しばらく、声を出して笑った。

 

実は最初のセッションでの直接伝達の時も、笑いたくなったが、初対面なので我慢してたのだ。

あれと、ほぼ同じ感じが起こった。

 

笑いが収まると、全てが変わっていた。

「おい、いつまでも寝てるんじゃないよ! 分かった?」

と言われたみたいだった。

「はいっ! 分かりました!」

 

気がついた。

私、随分「彼女」と離れてたんだ。

私が「彼女」と離れていなければ、人が何を言おうと関係ない。

木幡先生が仰る通り、「誰も私のボタンを押すことはできない」のだ。

 

その恩寵の中にいれば、苦悩が張り込む余地はない。

全てはどうでもよい、細かいことなのだ。

 

ここには誰も入れない。

入ってきたとしても、私に触れることはできない。

もし何かが入ってきて、私に触れていったとしたら、それは私が彼女と離れている、ということ。

 

気がつかないうちに、私はいつのまにか「彼女」と離れて「想念」と話し込んでいたわけだ。

お茶まで出してね。

 

なぜ今、これほどまで強いエネルギーが流れ込んできたのか?

木幡先生とのメールのやり取りで深く接続する事ができたのか?

ただ恩寵のなせる技に感謝するしかない。

 

ともかく、考えすぎ、分析しすぎは今は良くないので、起こっていることに感謝しつつ、この状態にとどまれるよう、注意深く、開いて、あり続けよう。

これを忘れちゃいけない!

 

12/2

だんだんと朝が寒くなってくる。

目覚めると、夜が明けたばかりの曇り空。

ブルーグレイの空がうっすらとピンク色に染まっている。

雲の隙間から時々太陽が顔をのぞかせるが、また隠れてしまう。

水平線は霞(かす)んでいる。

ただ窓の外をこうして眺めて過ごす、朝の時間がとても好きだ。

 

昨夜木幡先生から送られてきた、パパジ(プンジャジ)のサットサンの動画。

(画面の下、右から4番目のアイコンで、日本語字幕付きに設定することが可能です。

若い女性が「私」を見せてください、という。

パパジ(プンジャジ)の伝達によって「それ」を見つけた彼女は、弾けたように笑い出す。

私も一昨日の笑いの感覚を思い出して、彼女といっしょに声を出して笑った。

その笑いの感覚がまだ残っていた。

 

自分が急に笑い出したくなった時、あれを言葉にするなら「弾け飛ぶ」って感じだったな、と思う。

鍵がかかっていた小箱の錠前がパチンと外れる感じ。

そこから中にあったものが、弾け飛ぶ。

小さな爆発。

すぐそばにあったのに、実は気がついてないだけだったという、驚きとおかしさ。

 

もう自分を想念で汚したくない、と思う。

ずっと私は、想念で心も体も痛め続けてきたんだな。

抜け出したと思ったのに、いつのまにかまた同じことをやってた。

もう、いい加減終わりにしたい。

急に涙が出てきた。

 

ひとしきり泣くと、また笑いの感覚が戻ってきた。

体の奥からエネルギーが湧き上がってきて、今度は飛んで踊り出したくなった。(忙しいね)

 

苦悩モードだった時はずっとダークなピアノ曲ばかり聞いていたが、今朝はイケイケのダンス曲をイヤホンで聞きながら、軽やかな気分で家を出る。

 

あぁ、忘れなくないなぁ、この感じ。

ずっとこれで、いいんだよ。

あなたを汚すものは誰もいない。

あなたを苦悩させるものも。

 

仕事が終わって、友達の家に久々に遊びに行った。

お酒を飲み、素直に普通に会話を楽しめる。

私が何かをつかみ取ろうとしなければ、思考で固めようとしなければ、私の素直なあり方の中にい続ければ、不自然なことは何もないんだよ。

ただ静かに穏やかなだけ。

 

今回の失敗で、過剰な思考活動に熱中すると、知らぬまに危険地帯に足を踏み入れると痛感したので、気をつけます、本当に。

日記も書きすぎず、さらりと。

考えすぎるくらいなら、映画でも見て笑っていよう。

 

12/12

昨日あたりから、若干下降してきた感じがある。

エネルギーはいつもそこにあるけど、意識の在り方として・・・

夢の重力が薄っすら入り込んできた。

 

昨日、手書きの日記をパラパラ見ていたら、木幡先生に下降ポイントとして指摘されていた「問題の10月26日」の日付で、こう書かれていた。

「夢から覚めた感覚があるが、それは逆だろう。覚醒状態から夢の状態に入って行こうとしている。夢に引き込まれようとしている。」

 

おぉ、その時の私は、ちゃんと分かってたんだね!

でもエネルギー状態がそのまま継続していたから、その事実を見ないようにしてしまったんだ。

そこから気がつかないうちに、眠ってしまったんだ。

 

だから、できるだけ覚めていたい。

下降しているなら、その状態に気づいていること。

ごまかさない。

 

夢の重力は、不機嫌さや憂鬱さ、体調の悪さとして現れる。

今日は体調が悪い。

目がチカチカして眩しい。

現実に向き合う事に、少しイライラしている。

 

まあ、整体だって一回受けただけだと、すぐ戻っちゃうものね。

でも、戻るって一体どこの地点に?

だって私たちは、もともとはまっさらな何もテンションのない赤ちゃんみたいな心と体だったのに。

本来の在り方はそこにあるのに。

 

静かに座りながら、自分の中の素直で開け放たれた場所を感じていく。

とてもピュアで、柔らかい その眼差しの中に・・・

 

思い出す風景はいつも同じだ。

生まれてから6歳まで住んでいた川の近くの家。

家の裏は、何もない野原が広がってて、すぐそばには川が流れていた。

湿原の端っこにあったその家の周りは、吹きっさらしで視界が大きく開けていた。

 

空と川と野原

それをただ見つめていた、その眼差し

 

やがて、とても繊細なエネルギーが降り注いできた。

いつの間にか泣いていた。

 

何も持たない、空っぽの私に降り注がれる。

その愛に感謝しかなかった。

 

そうなんだよね、どんな極悪人だろうと、その存在の底はみんな同じなんだ。

同じ光と素直さに満ちている。

なのに私たちはみんな、色んな理由で自分を傷つけ、欺き続けている。

 

余計な鎧(よろい)を背負い込んで、特別な何かになったような気がしている。

本来の美しさを忘れて・・・

いつのまにか、自分が傷ついていたことも忘れる。

だから、本当は憎むべき人など、誰もいないのかもしれない。

 

ひとしきり泣き終えると、しんとした静けさに包まれた。

とても硬質な、ずっしりとした静けさ。

思考は切れ切れの雲のようにしか、流れてこない。

それもすぐに、空(くう)に溶けていく。

とても深いところが、洗い流され、癒された感じがした。

 

私が意図できることは、もはや何もないのだ。

本当に何もない。

全ては、「それ」の導くままに・・・

 

何度も何度も、繰り返し忘れては忘れては思い出す。

私が「彼女」の愛を完全に信頼し、それとひとつになるまでは・・・

 

12/15

今日も朝、小一時間ほど静かに過ごして、仕事のため家を出る。

だいぶ話す事には慣れてきたけど、どうしても左脳優位になってしまい、仕事が終わるとどっと疲れる。

左脳を使うと、自ずと批判的になるということに気がつく。

 

「何であんなこと話しちゃったんだろう」とか。

「もっとうまく説明するべきだった」とか。

どうでもいいことを、グダグダ考えてしまう。

 

何かこう、右脳を使ってシンプルに爽やかに話せないものかな。

 

でも瞬時には無理だけど、最近はリセットも割とちゃんとできる。

ちょっと昼寝して、そのまま明け渡していれば「それ」のエネルギーで洗い流されていく感じ。

 

また、とても深い静けさがやってきた。

だんだんとエネルギーの感触が変化している。

前は「彼女」と呼んでいたが、最近は「それ」の方がしっくりくる。

静けさは、冷たい石のようだ。

ズシンと不動で、凍りつくよう。

その静けさに、ただ圧倒される。

 

私はこの静けさを何よりも愛している。

ただ静かにここにいれば、どんな言葉も語る必要がない。

あらゆる粒子が散りじり、バラバラになり、固まることのない 柔らかな広がりの中で、私はただ、あり続ける。

 

私は名前もなく、誰でもない。

「それ」に抱かれる赤ん坊のように、ここに存在している。

 

とても柔らかく、自由で 、穏やか。

なぜなら、私は形を持たないのだから・・・

私を固めるものはない。

 

はじめからずっとそうだった。

私は誰でもなく、形もなかった。

形がないのに、形あるものになろうとしていたから苦しかった。

そうでないものに、無理やりなろうとしていたのだから・・・

 

誰かであったことがないのだから・・・

誰のものでもある訳がない。

なのに、誰かのものであろうとしたり、誰かを自分のものにしようとしていた。

 

全て不自然な事をしていた。

不自然だったから苦しくて、不自然だったから痛みがあった。

 

ただ完全に開かれたそれとして、限定されないものの中にあり続けるならば、何の痛みが、何の苦しみがあるというのだ。

 

木幡等によるコメント

今回12/15のご報告におけるポイントとなるのは、以下の文章です。

また、とても深い静けさがやってきた。

だんだんとエネルギーの感触が変化している。

前は「彼女」と呼んでいたが、最近は「それ」の方がしっくりくる。

静けさは、冷たい石のようだ。

ズシンと不動で、凍りつくよう。

その静けさに、ただ圧倒される。

 

明らかに真なる自己の目覚めに伴うエネルギー的な変容が進んでいます。

このようなエネルギー状態が維持されていれば、招かざる想念が入り込んでくることはありません。

それは、想念の本拠地である肉体/精神の次元よりも高次の聖なる次元に移行しつつあるからだと言い換えることもできます。

 

窓の外に飛んでいる想念という羽虫を目撃することはあっても、その羽虫が家の中に入り込んでくることはないのです。

あなたが窓を開けて、招き入れない限りは・・・

やがて、このような意識状態を永続化することができるようになれば、もはや想念に悩まされることもありません。

 

とても順調な仕上がりです。

 

2018年12月25日~27日 / 3日間の特別セッションを終えて

12/28

2泊3日で木幡先生に直接お会いするために出雲へ行ってきた。

最初の個人セッションから2ヶ月ちょっと・・・

 

木幡先生との出会いから私の探求人生は大きく変わった。

私はこれまで、主に海外の色々な場所へと出向き、覚者(悟った人)と称される有名な方々も含め、色々な先生と出会ってきた。

どの方も、私に多くの事を教えてくださった。

 

そのような中で、私の「聖なるものへの扉」は少しづつ緩んできていたのだろう。

時々扉はわずかに開き、それが流れ込んでくるのを感じる事もあったが、いつのまにか閉じてしまう。

 

しかし木幡先生はたった1回のスカイプでのセッションで、その扉を大きく開いてくださった。

その時の衝撃は忘れられない。

そして2ヶ月たった今も、扉は閉じていない。(時に後戻りすることはあったけれど・・・)

 

是非とも直接お目にかかってお礼が言いたい。

スカイプ越しではなく生身での対面をして、その存在と在り方をもっとダイレクトに感じたい。

そんな思いで出雲に向かった。

 

「(セッションをする部屋とは違い)私の明け渡し部屋は、散らかっているよ。」と木幡先生は事前に仰っておられたが、確かにお世辞にも綺麗とは言い難かった(笑)

けれど、その部屋で対話をしていると、終始不思議な静けさの中に浸(ひた)されていた。

 

木幡先生は無類の聞き上手で、こちらの話をどんどん引き出してくる。

話が尽きる事がなかった。

 

時間を忘れて話しながらも、その根底には常に「透明で純粋な意識の静けさ」が流れていた。

話題が目覚めに関することになろうが、人生全般に関することになろうが、その「静けさ」は失われることがない。

 

ちょうどそれは、二人で温泉に浸かりながら、首だけ出して話している感じだ。

何を話そうとも、温泉にはずっと浸かっている。

ピンと張られた気づきとくつろぎが同居した何とも不思議な感覚だった。

 

「それ」の中で、くつろぎながら覚醒しているのと同じ感覚・・・

 

木幡先生は、今回の来訪では「真なる自己としての在り方」を学びなさいと言っておられたが、まさにこういう体感なのかと納得した。

これをいつも失わずにいること。

共にある全ての時間が、素晴らしいセッションだった。

 

帰り道、空港のトイレで自分の顔を見ると、目つきが変わっているのに驚いた。

ちょうど、目の後ろ側にエネルギーが広がっていて、その満ちたエネルギーで目が見開かれている感じ。

黒目が、ガラス玉みたいに見える。

 

「うわ~、さすがに直接対面の伝達力はすごいわ。」

 

2泊3日はあっという間で、自宅に戻ってみると現実感がなく、ずっと夢の中にいたようだった。

いや、それは「夢の中」ではなく「目覚めの中」だったのだと思う。

 

そして今、あの部屋で感じ続けていた「静けさ」が、自分の部屋の中にも流れ込んでいるように感じている。

その「海」は空間を超えて一続きなのだ

だからこそ、距離を超えて「それ」が伝わることが出来るのだと・・・

 

今回いただいたものを、しっかり自分の中に落とし込んで、失われないように育てていきたい。

言葉として捕まえる前の、静けさと喜びの中に留まりながら・・・

 

短いながらも、忘れられない旅になりました。

本当にありがとうございました!

 

無限の感謝を込めて

 

12/30

暮れゆく2018年。

今年は後半に、木幡先生との個人セッションから始まった予想だにしなかった大転換が起こって、思いもかけないところに動いて行こうとしている。

その変化の胎動を年末の静けさの中で感じている。

 

今日はとても良い天気で、年末の掃除などして軽やかに過ごす。

 

出雲以来、静けさの質がまた変わった。

より透明度を増して深くなってる感じ。

当初の頃のような分かりやすい恍惚感はなくなって、常に自分が一段深い場所で目覚めているように感じる。

 

昼食後に開け渡している時、いつもは音楽をかけているのだけど、ふとそれが必要ない気がして無音の中で静かに座っていた。

「シュワーっ」という音が聴こえて、それはずっと耳鳴りだと思ってたけど、注意深く聞いていると、耳鳴りのような頭を圧迫する音の後ろにもっと軽やかな柔らかい「シュワーっ」という音が聞こえるのに気がついた。

そこに意識を向けていると、覚醒状態がどんどん深まっていった。

頭がガクガク船を漕ぎ始めたので、体を横たえたが身体だけが寛いでいって、覚醒は続いている。

とても心地よいまどろみの中に在り続けた。

 

私は静けさのガラス箱に入っている。

それの中で目覚めていることによって、想念は遠い場所から、時々窓を叩く。

そこに巻き込まれれば不快感として認知される。

この「夢から覚めていくような感覚」が、本当は「夢に引きずられていく感覚」なんだな・・・

 

昨日撮った目ヂカラの強い自撮り写真を眺めてみると、「たしかに別人だわこの人」と思う。

私、本当に夢から醒めようとしているのかな。

何年も、幾生も続いた長い長い迷いの時間が、もうすぐ終わってくれるのかな。

 

12/31

穏やかな良い天気の大晦日。

私の心も、とても静か・・・

 

目の感じは相変わらず見開かれたままだが、頭の中が以前とは激変したという感覚はない。

普通に考えるし、活動している時は想念も起こる。

 

ただ、座って明け渡す時の静けさは増している。

何かが確実に違うのだけど、はっきり言語化することができない。

強いて言うなら、私がどんどん透明になっている感じ。

自己意識としての私は当然いるわけだけど、その自己意識が透明になってる。

 

だから自己意識はそこにありながらも「私はいない」という感覚が生まれる。

「私はいるけど、私はいない」みたいな。

そういう不思議な透明度と静けさ・・・

 

確かに明け渡しているときの私の頭の中に誰かが入ったら、

「わっ! 何これ? 頭の中が真っ白、なにも考えられない!」

って言うかもなぁ(笑)

 

とても穏やかで、深く静かに幸せだ・・・

 

2019.1/1

今日もとても良い天気。

冬の日差しが、窓からキラキラ差し込んでくる。

 

昨日、1年前の日記を読み返していたら

「マインドのデフォルトは、いつもNot OKだ」って書いてる箇所を見つけた。

※Not OK・・・『このままではいけないという想念』と『私』が同一化した『問題があるという意識状態』。すなわち『ただ在るということ』ができない意識状態。不自然で歪んだ在り方。

 

マインドはいつも「私はこのままではいけない。」って泣いてるって。

だからマインドを超えところから世界を見たいけど、すぐに戻ってしまうと。

 

まあ、去年はそんな感じだったよね。

朝起きた瞬間に『このままではいけないという想念』がなだれ込んでくる。

努力に基づく取り組みじゃ、マインドは簡単には超えられなかった。

 

今、自分の心の何が変わったかといって『このままではいけない』が随分減ったんだなと・・・

もちろんまだ、抵抗も恐れも戸惑いもある。

 

でも、朝目が覚めて『このままではいけない』と思うことは、ほぼなくなった。

それが静かな変容なんだなあと、この穏やかな新年の空気の中、しみじみ感じている。

何も特別な事がないようで、いつのまにか心が静まっている。

 

去年の今頃は本当に苦闘していたから、今穏やかであることの、そのコントラストが自分の中で際立つ。

そのための苦闘だったのかもね。

だから結局は「問題なし」。

 

直接対面での伝達以来、いつも流れている「それ」の気配が濃厚になり、目を閉じると、すぐに引っ張り込まれる。

すごく深く入っていって、随分長い時間経っているようで、ふと時間を見ると10分しかたってないとか。

何故か前より、時間が長く感じるようになった。

 

前より深いところに入れるけど、まだ意識を明晰に保ちきれずにウトウトしてしまうからかなぁ。

 

それと、あまり音楽を必要としなくなった。

今までは明け渡し中も、うっすら思考が働き続けていて、音楽を聴くことでそれを避ける事ができたけど、思考が前より働かなくなったので音楽もいらなくなった。

 

色々と微妙な変化が起こっている。

 

今年はより「問題なし」でありながら、自分と同じ魂たちが本来の姿を思い出すために、できる限りのお手伝いができたら、これ以上素敵なことはない。

その為に、道を深め、自分がしっかり仕上がって行くのを願うばかり。

 

どこまで行けるかな。

その新しい旅路はもう始まってる。

 

※『このままではいけない』『問題があるという意識状態』という言葉は、原文の『Not OK』という言葉を、読者の方がわかりやすいよう、木幡 等の手によって書き換えたものであります。

 

1/2

昨日はスカイプで木幡先生との長い対話となり、3時間しか寝ないで家を出た。

こんなに寝てないのに、割と普通でいられるのって本当に不思議。

ずっと睡眠時間をちゃんと取らないと、フラフラになる人間だったのに。

 

今日は家族と、おじさんの家を訪問した。

その会話の間中、ほぼ 「温泉」に浸かったまま話すことができた。

意識をそれに留意しながら、「それ」と共に話す事が、非常に心地よく、自然にできた。

「あぁ、自分がこの場所から話し続けるってこういう事なのか」と、ちょっと合点した。

 

多分、3日間の特別セッションと昨日の木幡先生との対話が効いてるはず。

あれだけ長い時間、集中して話す事で、意識の深い所にインプリントされるんだなぁ。

 

それと昨夜ラストに受けとった強度の「それ」のエネルギーも、かなり効いてると思う。

今日は、かなり普通に動いていても「それ」が深い所に浸透している感覚が残っている。

 

全てが遠いところで起こっているような感覚の中にある。

「起こることは何らかの神の采配なのだ」と、あるがままの現実に対して文句を言う自分がいない。

 

昨日受けとったエネルギーと寝不足のお陰かな・・・

 

※今回の若山様の目覚めの進展は、これまでにないほどの大きな変容のケースでしたので、この時のスカイプでの対話とは、私が若山様の変容の検証をするために行った特別なものであります。

 

2019年1月15日 / スカイプでの個人セッション / 第4回目を終えて

1/16

セッションの翌朝

本当にクリアに静か。

透明な静けさの中に浸されている。

ただ、じっと座っていたい・・・

 

朝起きて、そのままソファの座り目を閉じていたら、いつのまにか2時間くらい経過していた。

 

身体全体は緩んでいるが、昨日の直接伝達の前までに感じていた強いエネルギーは消えている。

もっとスッキリと純度が高いクリアな透明感。

 

とすれば、一昨日のあれは詰まっていた肉体レベルのエネルギーが、なんらかの作用で緩んで流れたという「それ」の浄化作用だったんだろうか。

 

昨日のセッションで 「それ」が肉体レベルに及ぼす「快・不快」に囚われないようにと言われたのは、またひとつ大きな気づきだった。

 

ここ数日下降ぎみで、ちょっとしんどかったから、一昨日に突然やってきた シュワーっと気持ち良いエネルギーに飛びついてしまったわけだけど。

 

たとえ下降してて逡巡していても、ただ明け渡していれば何も問題なし。

大切なのは、そういう日々の地味な明け渡しと言われ、目から鱗。

 

ああ、そうか・・・

どんなに気持ちよく心地よく幸せだったとしても、それは肉体と精神のレベルでしかないんだな。

それに囚われると、そこに釘付けにされてしまう。

 

本当に一歩一歩、地味に明け渡すだけでいいんだ。

この理解は自分にとってかなり大きい。

 

一昨年インドでガンガーミラ(Ganga Mira・・・プンジャジの弟子であり妻でもあった霊性指導者)のサットサンに出た時、彼女が

「パパジ(プンジャジ)のサットサンに行くと、みんな気持ち良くなって恍惚(こうこつ)となっていたけど、『気持ち良くなっているのはマインドに過ぎない』とパパジは言ってたわ。」

と言ってたのを思い出した。

その時は「え~、エネルギーで気持ち良くなるのすら良くないの?」と思ったが、今日やっと少し理解できた。

 

気持ち良くなるのが悪いというのではなく、槍が降ろうが甘露が降ろうが、ただ静かに明け渡す。

気持ち良くなっているのは誰なのか?

 

木幡先生との対話は、何気なくおしゃべりしているようで、翌朝思い起こすと色んなことがクリアになってる。

 

今までずっと逡巡していた「女性としての幸せや、可能性を追求しなければ、という条件付けからの解放」という問題もパラッと剥(は)がれた。

 

それは探求の通過点でしかないんだ。

「自分が身体の中にしっかり在るということ」も、「人間、そして女性としての欲求を解放したり、自由に表現するということ」も、準備としては悪くない。

でも、本当に大切なことはその先にある。

肉体のレベルを離陸した先。

 

インナーボディやインナーチャイルドが大した問題ではないのと同じ。

深掘りしたって何も変わらない。

そこは十分やった、もう落としてもいいんだ。

 

なんだ、すごく簡単なことだったんだ。

どうして今まで気がつかずにいたんだろう。

直接伝達の後で、自己意識がかなり離陸していて、自然と物事を俯瞰(ふかん)的に捉えられるようになっているのかな。

下降したらまた、また戻ってきてしまうんだろうか。

 

私は女であるけど、女ではないし、身体ではあるけど、身体ではない。

本当はそこから自由になりたいのだ。

だって、ずっとそれを不自由だと思っていたのだから・・・

私が女でいることも、身体に限定されることも不自由だった。

 

その感覚こそ本来のもので、身体の様々な心地良さにフックされている今の状態が後付けで作られたものなのかもしれない。

だったら、その本来のあり方を本当に思い出していくだけでいい。

本当にただ純粋に素直に・・・

ピュアな魂のあり方そのものとして・・・

 

追伸:

昨日木幡さんが私の中の男性的な部分を感じるようになったとおっしゃられていましたが、思えば木幡先生とお話しするときの私は自分が女性だと意識する前の自分に戻っているのかもしれません。

(もちろん女性という意識は表面上ありますが、もっと深いレベルで。)

 

だから女性という身体に限定される前の、魂に由来する統合された部分が出てくるのかもしれませんね。

それが透明で素直な在り方とつながっていくのだろうと感じています。

 

いつも本当にありがとうございます!

大きな愛と感謝とともに

 

木幡等によるコメント

今回のポイントは、以下となります。

身体全体は緩んでいるが、昨日の直接伝達の前までに感じていた強いエネルギーは消えている。

もっとスッキリと純度が高いクリアな透明感。

 

エネルギー的には強くなったわけではないが、「もっとスッキリと純度が高いクリアな透明感」になったということは、意識としての在り方の純化、すなわち自己意識としての生来の純粋な在り方が取り戻されてきたことに由来するものです。

悟りに至る目覚めにおきましては、エネルギー的な進化も必要不可欠ですが、最も大切なことは「意識としての在り方の純化」です。

なぜなら「意識としての在り方」が純粋であれば、エネルギー的なものは自ずとついてくるからです。

 

2019年2月20日/フルムーン・ヒーリングに参加して

今夜はムーンデイ・ヒーリング・・・

ノーコンタクトでエネルギーを受け取るのは始めてだった。

 

10分前から椅子に座っていると、「目覚めの直接伝達」の時とは違う、柔らかな広がりのあるエネルギーを感じ始めた。

ちょうど雨が降っていたこともあり、何か水の中に包まれているような、ふんわりと優しい感覚・・・

 

しばらくすると、体があちこち、ブルッ、ブルッ、っと動き始めたので、「あぁ、エネルギーが来たな・・・」と思う。

今までもこういうことはたまにあったが、今回は結構激しく小刻みに動いていた。

 

やがてエネルギーが強く後頭部に移り、思考が静まって「穏やかで満たされた感覚」がやってきた。

そのままエネルギーは背面全体に広がっていく。

 

例えようもなく大きな何か・・・

優しくみずみずしい光の粒が、宇宙から降り注いでいる感じ・・・

 

「これは愛だな~・・・」と、ひたすらその中に包み込まれていた。

 

個人セッションでの「沈黙による直接伝達」だと、木幡先生と顔を合わせて行うので、木幡先生を通して、それがやってくるように感じるが、「ノーコンタクトでの放射」では姿が見えない分、彼方から直接やってくる、という感覚になる。

 

個人セッションでの「沈黙による直接伝達」はエネルギーがギュっと凝縮された感じだけど、「フルムーン・ヒーリング」は放射時間が長いし、一人で受けるので、より内側に入っていきやすい。

 

ノーコンタクトならではの良さがあるのだと実感した。

 

多分、今回の「ヒーリング・エネルギーの直接伝達」という質のせいもあるのだろう。

ただ、本当に大きな愛を感じていた。

 

木幡先生を通して、一なるものからやってくる愛の大きさ。

そしてそれを、ご自分の存在を通して、私たちに伝えてくれる先生の魂の器の大きさ。

「こうした役目を請(う)け負うということは、並大抵のことではないだろうな」と痛感する。

 

覚醒した意識はあるものの、自己意識がどこにいるのかわからない。

気が遠くなるような感覚の中に吸い込まれていった。

 

やがて、ふたたび体がぶるっと震えたので、放射が終了したのだろうと思った。

そのまましばらく余韻の中で、明け渡していた。

 

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