「エゴ」と「真我」
まだまだ、これから書き足していきます。
木幡に訪れた新たな理解を基に「直接伝達」などを始め、その他の記事も書き直し始めています。
「あなた」とは?
いったい、
「誰」が「あなた」を定義しているのであろうか?
それさえも明確でないのに、
どうやって「あなた」が「あなた」を定義できるというのだろうか?
「私」を構成する主な要素
● 知性
● 感受性
● 存在性
認識の主体である「知性」── 能動的機能
知性の働きとは「ああしよう、こうしよう」「これは何々だ」と比較に基づいて考えること。
要は「何かをすること」ばかり。
ゆえに能動的な機能だね。
だから、あなたがこいつに主導権を奪われてしまったら心は休まることがない!(笑)
インテリが瞑想を必要とするのは、そういうこっちゃ。
しかし、やつらは
「あれを感じとろう!」
「何もしないでいよう!」
瞑想中にも考えてばかりだね・・・(笑)※1
比喩的には「考える私」と呼んでもいいだろう。
肉体における中枢は頭部にある。
感じとる主体である「感受性」── 受動的機能
感受性の働きとは色んなものを感じとること。
その様な意味においての「ハート」や「心」。
ゆえに受動的な機能になるよね。
比喩的には「感じとる私」と呼んでもいいだろう。
肉体における中枢はオッパイにある。(ホンマかいな?)
原初の実在である「存在性」── 中立的基盤
存在性とは「あなた」をも含めた「万物」を生み出す根源的静寂の振動です。
だから「原初」の「実在」なのだ。
だから「知性と感受性との連携活動」という意味における「人間意識」においては捉えることが困難なのだ。
それが「原初である」ということは、存在性は知性や感受性に先立って存在するものであるということ。
それが「実在である」ということは、知性が存在性そのものを認識していようがいまいが、感受性が存在性を感じとっていようがいまいが、そんなこととは関係なく「ただそれは在る」ということ。
だから中立的基盤になるよね。
比喩的には「ただある私」と呼んでもいいだろう。
肉体における中枢は腹部にある。
とはいえ「私は何もしていなくとも精神や肉体として在るのは当たり前じゃん!」というようなことではないよ。
だから「考えるあなた」や「感じとるあなた」に忘れ去られているんだもん。
だからこそ、真我実現や悟りを目的とした自己探求のゴールとされているんだもん。
存在性とは「原初」の「実在」だからね。
あなたや宇宙を生み出した極めて微細な静寂的振動なのだ。
しかし、このような「根源的静寂」には「極めて微細ではあるが振動がある」からこそ感じとれるのだ。※2
感受性によってそのような存在性そのものを感じとり、なおかつ知性によってその状態を認識するということは・・・
赤ん坊は知性が目覚めていないので、基本的にその感受性(心)は存在性と一つである。
「存在性しか感じとってない」とも言える。
だから赤ん坊を見ていると安らぐのだ。
しかし、ひとたび外部から大きな刺激を与えられると、感じとる矛先は大きな刺激の方へと向かう。
その時、赤ん坊の感受性(心)は存在性から切り離される。
だから泣きじゃくる。
このように、動物や赤ん坊は在り方のベースにおいて、感受性と存在性とが一つでは在るが、そのことを認識してはいない。
(人間的な)知性が目覚めていないからだ。
「私の在り方」における質的な違い
以下の違いは「バリエーションの違い」ではなく「質的な違い」「次元の違い」であるということに気をつけて下さい。
知性主導のあり方:エゴ的支配による分裂状態
赤ん坊の頃とは在り方が一変。
知性が主導権を握って「私」と名乗り、感受性を道具のように扱い、存在性は破門の状態。
目覚めや悟りの文脈においては、このような在り方・状態を擬人化して「エゴ」と呼ばれているわけだよね。
知性(主導) > 感受性(従属) ・・・(存在性は忘却)
中立的基盤である存在性が置き去りにされているため、調和を失ったあなたはいつも落ち着かずに揺れ動いている。
存在性主導の在り方:真我実現による調和的統合状態
存在性の静寂が基盤として在り、知性と感受性がそれぞれの機能として連携している状態。
存在性(基盤・主導) → 感受性 + 知性(連携)
西遊記という物語においても、中立的基盤である三蔵法師が玉座にいることでみんなが一つにまとまっているんだよ。
注釈
※1.
「何かを感じとろう!」
「何もしないでいよう!」
瞑想中にも考えてばかり・・・(笑)
「何かを感じ取ろう!」感受性の役目でしょ?
「何もしないでいよう!」存在性の約目でしょ?
お前(知性)は後ろに下がっとれ!(笑)
※2.
存在性には、たとえわずかながらといえども振動があるがゆえ、存在性は絶対無ではない。
絶対無は究極の根源であり、感受性によって感じる対象になりえない。
それゆえ、絶対無の悟りとは「感じとれるもの=言葉にできるもの」ではない。
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