何も、私と同じ日本語が話せるからといって、その人とコミュニケーションが通じるというわけではない。
たとえ話す言語が違っても、互いに内なる自己が存在している者同士が向き合えば、コミュニケーションは通じる。
言葉がなくとも通じ合える。
心が通い合う。
そこには真の人間的な愛の流れがある・・・
なにも私は言葉だけで語っているわけではないのだ。
ささやかな風鈴の音が響くからこそ、その背景にある静寂が際立つように、私は拙(つたな)い言葉を語りながらも「ささやかな愛」と「豊潤(ほうじゅん)な静寂」を響かせている・・・
この記事へのコメントはありません。